研究員
Aさん(40代前半)の場合

子どもの頃

普通の子供でした
出身は静岡県浜松市。子供の頃は活発で、近くの畑や田んぼや公園で遊び、学校行事や地域のお祭りが好きな普通の子供でした。
研究に関わるところでは、理科の実験が好きでした。エジソンや野口英世の伝記もよく読んでいて、試行錯誤しながら実験や研究をするところが楽しそうで好きでした。
算数の時間に、体積の公式が本当にいつでも成り立つのか疑問で、授業後も給食と昼休みの時間を費やして、積木を積んで確認したりしていました。気になったら確かめずにはいられない性分は小さな頃からあったかもしれません。

中高生の頃

部活に熱中!
中高では運動部に所属していました。特に高校では、インターハイを目指して朝から夜まで部活一色という毎日を送っていました。
高校2年の秋以降、同級生が徐々に部活を引退していく中で、部活と受験を両立するには効率的な勉強が必要と考え、理系クラスから、一時、進みたいと思っていた学部に合わせて文転しました。しかし、結局は、理系の学部に進みたいと考えるに至り、いくつかの理系科目は独学することに。結果的にちょっと非効率でした。
実家から通える大学は限られていたため、県内県外問わず、多くの人が大学進学とともに一人暮らしをしていました。私も、大気環境について学びたかったので、気象学の研究室がある東京の大学に進学することにしました。

大学生の頃

充実した日々
大学の授業は、どれも興味深いものばかりでした。1年生の頃から気象学の特別講義を受講し、その時に聞いた中鉢先生のオゾンホール発見の話がとても印象的でした。
自分の学科の授業だけでなく、他学科の授業を聞きに行ったり、いくつか資格も取ったりしました。サークルやアルバイトもしていました。アルバイトは、家庭教師や小学校での引率などをやっていました。
将来は、学校教員になる道も考えていましたが、大学4年次に行った教育実習での経験を通して、教員以外の道を考えるようになりました。しかし、この時はまだ研究者になるという選択肢はあまり考えていませんでした。

研究室配属後

本格的に気象の世界へ
大学4年の時に、正式に気象学研究室に入りました。卒論では浜松の大気汚染について研究をしました。当時、自分の大学には大気汚染に関する学会誌がなかったので、夏休みに別の大学の図書館に通い詰め、一日中文献を読み漁りました。
先人の研究論文は、読む毎に新しい世界が広がるようでわくわくしました。卒論研究や修論研究を進めていく中で、もっと本格的に勉強したいと考え、博士課程に進学することにしました。それと同時に、研究者の道を考えるようになりました。
プログラミングは研究室に入ってから、研究上必要に応じて身につけました。また、学生の間は研究室のクラスタ(連結した複数のコンピュータで構成される計算機)を使って研究をしていました。スーパーコンピュータを使うようになったのは、ポスドクになってからです。

研究者になってみて

日常で味わえない
ワクワクに出会える!
研究者という仕事は、基本的には、何をやるかという内容から時間管理まで、個人の裁量に任されている部分が大きいと思います。自由度が大きいということは、それに対する責任も大きいと感じます。
研究では、日常生活で味わえないようなワクワクに出会えることもありますし、時に、深い霧の中を彷徨い続け、遭難しかけることもあります。良いときも大変なときもありますが、必要なスキルを磨いて、課題に向き合うというところは、研究者に限らず、どの職業にも共通して大事なのではないかと思っています。
将来の夢
研究者としては、一つ、ほんの少しでよいので、世の中の役に立てたなと思える研究をすること。それ以外は、過去から脈々と続く研究の積み重ねの中で、ちょっと面白くて将来に続く研究の礎となりうる研究をし続けていければと思います。
2021年取材
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