「京」が変える車の開発プロセス

風洞実験を超える空力シミュレーションで、より性能が高く、より安全な車を
Interview
2013年09月掲載
北海道大学大学院工学研究院 准教授/複雑現象統一的解法研究チーム チームリーダー 坪倉 誠
坪倉 誠
Makoto Tsubokura
北海道大学大学院工学研究院 准教授
複雑現象統一的解法研究チーム チームリーダー

10ペタフロップス※1の性能を誇る「京」。この計算性能を、日本の主要産業である車づくりに活かすための研究が進められています。今回は、HPCI戦略プログラム「分野4次世代ものづくり」※2 のメンバーで、複雑現象統一的解法研究チームのチームリーダーも務める坪倉誠さんに、自動車の開発に欠かせない「空力シミュレーション」について聞きました。「京」での空力シミュレーションは、車の開発をどのように変えるのでしょうか。

  1. フロップスは1秒間に行う計算の回数を表す単位。10ペタは1京(10の16乗)。
  2. 「京」をはじめとする日本のスパコンを最大限に活用して世界最高水準の研究成果の創出をめざす5分野のうちの1つ。

車の性能向上のカギは空気力のコントロールにあり

車が走るときには、空気から抵抗力、揚力、横力(よこりょく)を受けます。例えば、燃費を下げるには、車の表面をなめらかにして抵抗力を下げることが必要ですが、そうすると揚力が発生して安定性が悪くなってしまうことがあります。このように、車の設計では、空気力をいかにコントロールするかが性能向上の大きなポイントとなります。そこで使われるのが、風洞実験です。

「風洞実験では、粘土を削りだしてつくったクレイモデルやプロトタイプ車に、巨大な送風機で風を当て、空気力を測定したり空気の流れを見たりします。しかし、モデルをつくって実験を繰り返すのは費用も時間もかかるので、今ではかなりの部分がスパコンによる空力シミュレーションに置き換えられています(図1)」と坪倉さん。空力シミュレーションとは、車体の周りの空間を格子(「スパコンのことば」参照)に分け、各格子の中の空気の運動を運動方程式に基づいて計算する手法です。日本の車づくりには1980年代に導入され、低コストかつ短時間で車を開発するのに貢献し、日本車の国際競争力を支えてきました。

図1 現在の空力設計・開発のプロセス
図1 現在の空力設計・開発のプロセス
図1 現在の空力設計・開発のプロセス
自動車開発は、どんな車にするかというコンセプトデザインに始まり、多数の中から徐々に候補を絞り込んでいく作業である。その中で、車の性能評価のために、クレイモデルやプロトタイプ車を使った風洞実験が何度も繰り返されてきた。現在では風洞実験の多くがシミュレーションで置き換えられている。

「京」なら風洞実験を超えられる

しかし、坪倉さんは、現在の空力シミュレーションが“風洞実験の代わり”にとどまっていることに満足していません。「走る車の周りの空気の流れには、最大で数m、最小では1mmに満たない渦がたくさん含まれています。風洞実験では、このような渦をすべて観察することはとてもできず、現在、自動車会社が所有するスパコンでもシミュレーションできないため、経験的にモデル化しています。それが、『京』を使ったシミュレーションなら、きちんと再現できるのです(図2)。これによって、車の周りにできるさまざまな渦が車の空気抵抗や走行状態にどのように影響するかという理屈がわかり、設計を合理的に改良していくことができます」と坪倉さんは説明します。

図2 「京」による空力シミュレーションの例
図2 「京」による空力シミュレーションの例
図2 「京」による空力シミュレーションの例
従来は自動車の周りの空間を非構造格子(「スパコンのことば」参照)で3500万要素に分けていたが、「京」では23億要素もの格子をつくって精密な空力シミュレーションを行うことができる。

もちろん、「京」は日本にたった1台しかありません。しかし、現在、自動車会社が使っているスパコンは、10年前の世界最速スパコンと同程度の性能です。このペースが続けば、今から10年後には自動車会社各社が「京」級のスパコンをもつことになるでしょう。このことを坪倉さんは「『京』は、自動車会社にとっては10年後が見えるタイムマシンなんです」と表現します。

坪倉さんは2011年、このタイムマシンを有効に利用するために、自動車会社と大学に呼びかけてコンソーシアムを立ち上げました。これまで自動車会社どうしは、良きライバルではあっても、連携することはほとんどありませんでした。しかし、「京」の登場で、シミュレーション用ソフトなど、車を開発する道具づくりのために、皆の知恵を結集しようという気運が高まったのです。このコンソーシアムでは、自動車会社各社が抱えている問題を提示してもらい、「京」でどうアプローチできるかを検討しています。

車づくりの経験を補うシミュレーション

コンソーシアムの立ち上げに至るまでに、坪倉さんは自ら、「『京』が車づくりをどう変えるか」を自動車会社に説いて回りました。その中に、こんなエピソードがあります。

ある自動車会社(A社)が、自社の車とドイツ車の性能比較を行っていました。どちらの車も、風洞実験では抵抗値と揚力値がほぼ同じでしたが、実際に高速で走ってみると、ドイツ車のほうがより高い走行安定性を示すことがわかりました。A社ではその理由を実験でなんとか解明しようとしていましたが、坪倉さんがA社に協力してシミュレーションを行ったところ、車のフロントピラー※3から出る渦がピラーの形状によって変わり、車の後部に発生している渦と干渉する場合としない場合があること、干渉が起こったときに走行が不安定になることがわかりました(図3)。そして、A社は、「京」ならこれよりも高解像度の解析を短時間で行えると考え、コンソーシアムへも参加しています。

  1. 自動車のフロントガラスの左右にある柱。

図3 高速走行が不安定なモデルと安定なモデル
図3 高速走行が不安定なモデルと安定なモデル
図3 高速走行が不安定なモデルと安定なモデル
フロントピラーから出る渦がピラーの形状によって変わる。不安定モデルでは、ピラーから出る渦が車の後部に発生している渦と干渉して、激しい空気の流れが生じるという解析結果に基づき、安定性の高いモデルを設計することができた。
(Okada et al., 2009, 2012およびCheng et al., 2010, 2011)

一方、日本より自動車開発の歴史が長い上に、高速走行が一般的なドイツでは、ピラーの形が走行の安定性に関わることが経験的に知られていました。坪倉さんとA社が協力して行ったシミュレーションは、日本の自動車産業に足りない“経験”の部分を補ったわけです。

シミュレーションで変わる車づくりのプロセス

「『京』を使えば、リアルワールドシミュレーションが可能になります」と坪倉さんは続けます。突風や追い越し、急ハンドルなど、風洞実験では再現が難しい走行状態のとき、車がどのような運動をするかを明らかにできるのです。コンソーシアムではさらに、騒音予測、エンジンルームや排管系の耐熱性予測などの研究にも取り組んでいます。また、坪倉さんの研究チームでは、こうしたシミュレーションの基盤となり、将来のスパコンにも必要となる統一格子による連成シミュレーションを研究中です(下図)

段階的に構造格子を細かくする格子細分化技術を活用して「京」で行った空力シミュレーション

「京」での空力シミュレーションは、車づくりのプロセスを一変させる力を秘めています。「既存のシミュレーション技術を使っていたのでは、アジア諸国にやがて追いつかれてしまいます」と危機感を募らせる坪倉さん。コンソーシアムのメンバーとの強力なタッグで、日本ならではのものづくりを実現してくれることでしょう。

坪倉さんはこんな人

セスナに乗る坪倉さん(向かって右)。2006年11月、アメリカのコロラド州ボルダーにて。
「シミュレーションをやっているというと、バーチャルな世界に生きていると思われるかもしれませんが、そんなことはまったくありません」と坪倉さん。アメリカにいたときにはセスナを操縦してみたし、ドイツではレンタカーでアウトバーンを高速走行したそうです。
セスナに乗ったのは、“失速” を体験してみたかったから。飛行機の失速とは、翼に沿って流れていた気流が突然翼から離れ、飛行機が揚力を失って急降下することです。失速は流体の授業では必ず習うのに、実際にどんなものか知らないことがもどかしかったといいます。
失速時の警報音は、翼につけられた笛の音。これも、失速した時にどのような気流が生じるかわかっているから、的確な場所に笛をつけることができるのだと納得したそうです。
空力を実際に体感することを大切にしている坪倉さん。学生たちにも、自分が研究する世界を体験するように勧めています。
この記事は「計算科学の世界」NO.6
に収録されています。
計算科学の世界 VOL.6(PDF:4.58MB)pdf